おはようございます!
ライトワーカーAkikoです。
今日のテーマは『あいさつへの格別な思い』です。
子供の頃、大人の言うことには絶対服従でした。
大人の言いつけを120%死守することに命をかけていた私。
そんな私が他人のあいさつに異常に執着してきた理由とは?
今日はあいさつへの執着から見えてきた私が望むことについて書きます。
昭和の古き良き価値観
あいさつは元気に気持ちよく、他人の話しは目を見て聞く、噓つきは泥棒の始まり、
箸の上げ下げから机の拭き方、戸の締め方、髪を触るなど仕草の癖に至るまで・・・
周りの大人たちから教えられたことは山ほどあります。
8歳まで父が勤める会社の社宅に住んでいた私は、良くも悪くも様々な価値観の大人に囲まれて暮らしていました。
「もういいっ!」
というくらい母親からお小言的指導(フィードバック?)をもらっているのに加え、
上下左右に住む大人たちからも様々な教えが降ってきました。
現代のような核家族、希薄な人間関係の世の中になってみると、
それはそれでなかなか得難い環境。
考えようによっては恵まれた環境なのですが、
子供時代の私にとってはなかなか攻略困難で厄介でした。
第1子の宿命
私は第1子長女かつ、母方の実家においては初孫でした。
父方には目上の従兄弟がいましたが、母方の実家との方が接触回数が多かったので、
周りの子供の姿を見て学ぶ機会はあまりありませんでした。
私はさながら切り込み隊長のように、何でも先陣を切ってやらねばならない子供時代を過ごします。
あくまで仮説ですが、
自分が考えてやったことがことごとく失敗もしくは親の意に添わず、
親から手痛いフィードバックを受けてこういう私が出来上がったのだと思っています。
”失敗して怒られた”
という子供時代の記憶が色濃く残っていて、失敗や怒られることに過剰に反応してしまう私がいるように思います。
今でも他人の顔色が異常に気になってしまうのは、
子供のときに失敗して怒られた記憶が関係しているのかもしれません。
子供の頃のちっちゃい私は恐らく、
周りの大人の言うことを聞いておけば失敗しない、間違うことはない
失敗したり間違えなければ、大人に怒られて私が傷付くことはない
という成功パターンと呼ぶには脆弱な、
むしろ失敗回避パターンという名の世渡り方法を学習したのでした。
母親からほめられた記憶がない
私は母親からほめられた記憶がありません。
もっと言うと、母親からきちんと話を聞いてもらった記憶もあまりありません。
母から承認された記憶がない、もしくは乏しいのです。
そして母に何か間違ったことを言って怒られるのが怖かった。
母にとっての正解ではないことを発してしまう自分が怖かった。
母の正解ではない自分の気持ちを伝えてしまうことで、母から否定されることが凄く怖かった。
私にとっての母という存在は絶大なものでした。
母から否定されることは、私丸ごと、私の全部が否定されているとの認識でした。
自分の気持ちと母親の正解との齟齬が1㎜でもある可能性があると、
それを言った後の母からのネガティブな反応が怖くてそのことが言い出せない。
40年以上経った今でもその傾向が続いています。
母親に対してはもちろん他者に対しても、
「これを言ったら相手にどう思われるか?」
「私と違う意見だったらどうしよう・・・」
自信のないことを誰かに伝えるとき、それを言った後の相手の反応が気になるとき、
言葉を発しようとすると私は、決まって喉が詰まるような感じがして私の思いが声になりませんでした。
喉の粘膜同士がピタッと張り付いて言葉が出ることを阻止しようとしているように、
自分の身体の一部なのに自分の喉が制御不能となるのです。
今思えば言葉を発しないことで、
自分がネガティブな反応から傷付くこと、
私が全否定されること
から私自身を防御していたのでした。
お母さんにほめてほしかった私が生き残る方法
自分が正しいと思ったやり方では母からほめてもらえない、
ましてや肯定してももらえないのだと悟った私は母の言う通りに行動し生きることを選ぶようになりました。
そうすればほめられなくても、怒られないようにはなります。
母が怒ること = 母は私を否定 ⇒ 私は母から承認されてない ≒ 生きていけない
こんな図式が出来上がっていたのだと思います。
他人の顔色を伺うような仕草や振る舞いを他者に見ると、今でも気持ちがざわつきます。
その他者の姿に子供時代の自分を見て、そこに無意識に反応するのだと思います。
子供時代を生き残るため、つまり生存の欲求を満たすため、母からの承認を得るために
母親の言いつけを守りました。
今でも他人、特に自分より格上だと判断した権力者に対してはことさら自分を卑下してしまいます。(こんなふうに他者をジャッジしているのだと気付きました)
子供の頃に感じた母親への恐怖と同種の感情を無意識に相手にも感じるのです。
「また怖い思いをするかもしれない」
無意識に自分を卑下することは自己防衛。
下手に出て、言い訳しておけば責められない。
子供の時に感じた母親との感情の記憶が、深く関係しているように思います。
三つ子の魂百までとはよく言ったもので、約半世紀も生きてるのにまだそこに囚われている自分。
まさに小象の鎖です。
わたしにとって”あいさつ”とは
職場で気持ち良い挨拶をしてもらえないことがあると、
「なんであいさつしてくれないの?」
とすごく嫌な気分になります。
嫌な気分というより、その時の私は心の中で相手に怒ってます。
あいさつは人間関係の基本だと子供だって知ってるし、
そんなことは社会人として常識だと思ってました。
それが出来ない人は社会人失格。
幾度となくあいさつしない社会人に出くわし、なんで私はこんなに腹が立つのかと考え続けた結果、最近になってようやく気付きました。
私にとって
あいさつ = 承認
あいさつされないこと = 私の存在を承認されてない
私はそう無意識に思っていたのです。
子供の頃から母の承認に飢え、そこに生き残りをかけるほどのエネルギーを注いでいた私。
超お手軽な承認行動である”あいさつ”
私にとってあいさつは、私が承認されているという一番簡単で効果的な指標だったのです。
私がそこに存在していることを認められ、そこに存在して良いのだと相手から承認されているという指標だったのです。
それほどまでに私は承認に飢えていた。
それに気が付きました。
不思議なもので
「だからわたしはあいさつにこだわったのだ」
そう気付いて自分を受け入れられると、あいさつをしない人へも以前のような怒りは感じなくなりました。
これも私の未完了だったようです。
気持ちよくあいさつすることに価値を置いている人ばかりではないし、
私にとっての気持ちの良いあいさつが相手にとっても気持ちよいかも分からない。
大分独りよがりの思考で生きてきた(キレてきた)ことに気付いてしまった私はちょっと恥ずかしいのですが・・・
自分がすることを相手には求めない!
私は自分がしたいから気持ちの良いあいさつをするのだ!!!!!
私は自分で行動を選択し始めました。
大人の階段を一段上ったようで自分が誇らしくもあります。
ではでは。
ライトワーカーAkikoでした。
みんなが輝く世界のために。
余談です
達成欲+真面目人間な私は、何でもかんでも120%の力でやります。
『他人(ひと)の話しは目を見て聞く』も120%の眼力をもってやっていたのでしょう。
高校時代の担任には「俺をそんなに見つめるな」と言われました。
JKの私は、オジサンを見つめたつもりは毛頭ありません。
彼が自意識過剰なのか、私がそれほどの眼力で見ていたのか・・・
今となっては確かめようもありません。